筑豊本線

最終更新日2010.09.04.


● 基本データ

 筑豊本線は、福岡県北九州市の若松駅から福岡県を南西に進み、直方・飯塚を通り、鹿児島本線原田駅に至るJR九州のローカル線(地方交通線)である。本線を名乗る路線の中では路線距離が66.1kmと最も短い。ちなみに二番目に短いのは66.8kmの留萌本線である。
 日本有数の炭田地帯は筑豊炭田であると言っても過言ではない。日清戦争の賠償金で北九州八幡に製鉄所が作られたのは、豊富な石炭が確保できる理由があったほど。この炭田地帯を縫うように走るのが筑豊本線。かつては多くの石炭を輸送しており、各炭鉱に通じる貨物支線を有していたが、石炭産業の衰退と共に現在は全てが廃止されている。現在は、位置的利便性から北九州市・福岡市などとの通勤・通学路線となっているが、性質から大きく若松-折尾間、折尾-桂川間、桂川-原田間の3つに分けられる。また、折尾駅の南、東水巻駅側から分岐して鹿児島本線の黒崎駅方面に通じる短絡線があり、黒崎駅および門司港駅方面との直通列車が通る。
 長い間非電化路線で、ラッシュ時輸送に対応する為、客車列車や高性能な気動車が投入されてきたが、平成13(2001)年10月6日に電化された。電化の際、短絡線と篠栗線を含めた黒崎-直方-桂川-博多間には電車が走るようになり、この区間には福北ゆたか線という愛称名付けられた。このことより、折尾-桂川間は筑豊本線の一番のメインとなっている。また、それに合わせて若松-折尾間は若松線、桂川-原田間は原田線の愛称がつけられている。折尾-桂川間がメインとなった為、若松-折尾間、桂川-原田間は本線でありながら、ローカル線の風情が色濃く、特に原田線は6往復半の列車しか走っていない。
 歴史的には、石炭輸送を行う為、筑豊興業鉄道(明治27(1894)年8月15日社名を変更して筑豊鉄道)が明治24(1891)年8月30日、若松-直方間を開業したのに始まる。明治25(1892)年10月28日小竹まで、明治26(1893)年7月3日飯塚まで、さらに飯塚から路線は遠賀川に沿って南東へ、明治28(1895)年4月5日臼井まで延伸している。また、この間明治26(1893)年6月30日、九州鉄道の黒崎駅と筑豊興業鉄道の中間駅までを結ぶ短絡線が開業している。
 明治30(1897)年10月1日、筑豊鉄道が九州鉄道に合併される。路線は臼井から明治31(1898)年2月8日下山田まで伸び、明治34(1901)年6月28日上山田まで延伸開業している。一方、飯塚から南へ支線が伸び、明治34(1901)年12月9日に長尾(昭和15(1940)年12月1日桂川改称)まで開業している。また、明治35(1902)年6月15日、飯塚の北、山野分岐点(後に新飯塚に併合)から山野までの貨物支線が開業。これが後に後藤寺線となる。
 明治40(1907)年7月1日、九州鉄道が買収され国有化、明治42(1909)年10月12日の国有鉄道線路名称制定で、若松-飯塚-上山田間と各貨物支線が筑豊本線となった。
 長尾(現;桂川)から長尾線として、昭和3(1928)年7月15日筑前内野まで開業、翌昭和4(1929)年12月7日原田まで延伸した。これを受けて、若松-飯塚間と長尾線の飯塚-原田間が筑豊本線となり、飯塚-上山田間が上山田線として路線分離された。
 戦後は、昭和25(1950)年10月1日に東京-熊本間を走る急行「阿蘇」や、昭和40(1965)年10月1日に新大阪-佐世保間を走る特急「みどり」が筑豊本線経由で運転されるなど、多くの列車が筑豊本線を走っていたが、昭和60(1985)年3月14日のダイヤ改正で寝台特急「あかつき」が博多経由となり、一時優等列車が筑豊本線から消えた。現在は、特急「かいおう」が直方-桂川-博多間を、朝下り夜上りの2往復が運行されている。
 昭和62(1987)年4月1日の民営化後、特定地方交通線に指定されていた上山田線が昭和63(1988)年9月1日に廃止。 また、戦前から戦後にかけて、多くの貨物支線が開業したが、昭和44(1969)年までにその全てが廃止されている。
 平成13(2001)年10月6日電化され、門司方向から折尾-桂川を通過して博多へむかう列車が設定されるなど、石炭輸送路線から通勤・通学路線へと新たな道を歩み始めている。




若松-原田間 66.1km

※ 若松から桂川までは本数も多く乗りつくしは楽。しかし、桂川-原田間は
日に6往復半と極端に本数は少ないので、計画にはかなりな注意が必要。



[車窓の楽しみ方]
 現在では、全国で石炭が輸送されている光景を見る機会が少なくなってしまったが、若松駅前には石炭車、近くの公園にはSLが保存されており、ここが石炭輸送で賑わっていたことがうかがえ知ることができる。ここには多くの貨車がやってきていたのだろう。
 若松駅ホーム脇にある0kmポスト、ここから66.1km、(JR線の)30近くある本線の中では路線距離がと最も短い旅がはじまる。若松駅を出発した気動車の列車は、進行(折尾)方向左手に港湾施設や工場を道路(国道199号)を挟んで右手には住宅街などの生活圏を見ながら進んでいく。洞海湾の海や遠くに皿倉山が見えるので楽しい。二島駅を出ると、左右とも住宅街に変わり折尾駅に着く。
 鹿児島本線と立体交差となる折尾駅、駅舎も古く重厚な雰囲気を醸しているのだが、高架下にはレンガ作りの通路があり、歴史の深さを感じ取ることができる。ここから多くの場合、乗り換えとなる。この先は電化区間なので、折尾までと比べてスピードが格段に速くなったと感じられる。住宅街を走るので、あまり見通しはよくないが、東水巻を出ると視界が開ける。また、直方駅まで複々線化の路線が残っており、ここに石炭を満載した長大な貨物列車が走っていたことが偲ばれるし、想像すると楽しい。
 中間駅を出発すると大きく右にカーブし、遠賀川を渡る。ここから筑紫平野の広大な水田地帯が広がる。あたかも列車が水田の中を走っているようなので気持ちがよい。進行(桂川)方向左手前方に英彦山から連なる筑紫山地の山々が広がり、右手には三郡山地の山々が近づいてくると直方駅に着く。
 直方にはかっぱ伝説が残っているようで、駅の待合室にはかっぱが鎮座している。この他、九州北部では多くのかっぱ伝説を聞くのだが、筑紫平野には多くのクリーク(小川)、溜池があるので、子供が水に近づかないようにする為なのかもしれない。直方駅を出発して、しばらく平成筑豊鉄道伊田線が並走するが分岐し、川を渡って進行(桂川)方向左側に消えていく。ここよりしばらく遠賀川の西岸に沿って走るが、川面は高い堤防があり、ほとんど見られない。その遠賀川を渡って、鯰田駅。ここから徐々に家が増えていき新飯塚、後藤寺線の路線が進行(桂川)方向に分岐していく。再び、遠賀川を渡って飯塚駅に着く。
 飯塚駅を出発すると、すぐ進行(桂川)方向左手に双子山が見えてくる。これは地元で筑紫富士と呼ばれるいる山だが、実はこれ炭鉱より排出した残土をそのまま積み上げたボタ山なんだそうだ。石炭を掘り出す為に、これだけ掘ってきたのだと思うと、かなり驚かされる。飯塚からは、里山の風情が増してくる。こうして、桂川駅に到着する。
 桂川駅からは完全なるローカル線になり、車輌も1両の気動車である。桂川駅を出発すると、すぐ遠賀川の支流穂波川を渡り、博多方面にむかう篠栗線の路線が分岐していく。筑豊本線の路線は南に進み、進行方向左右に筑紫山地の高い山が連なる中を進んでいくが、進行(原田)方向左手には穂波川が作り出した平野を利用した水田地帯が広がる。筑前内野駅を出ると、どんどん山を登るようになり、筑紫山地冷水峠の下を貫く冷水トンネルに入ってゆく。
 トンネルを抜けると谷を駆け下り、ひょっと丘を登ると筑前山家駅。駅脇に北九州市内を走っていた西鉄北九州線600形(621号車)が静態保存されており、進行(原田)方向右手に見ることができる。ここから筑後川支流宝満川が作り出したU字の谷を垂直に横切るように路線がはしり、谷を下っていく。車窓の左右にのんびりとした里山が風景が広がる。宝満川を垂直に横切ると、登りに変わり、西鉄大牟田線を越える。ここから小高い山の中に入り、鹿児島本線の路線と合流、終点原田駅に到着する。
 車窓は、全体的に進行(原田)方向左側が面白い。



● 乗りつぶし記録

  ・2006.08.17. 北九州攻略作戦で、若松→折尾→桂川間に乗車。
  ・2006.08.18. 同、桂川→原田間に乗車。完乗達成。
  ・2010.08.21. 九州鉄道記念館号撮影で、折尾→天道→直方間に乗車。
  ・2010.08.22. 同、直方→中間→鞍手→新飯塚間に乗車。



● 駅舎写真

若松駅(2006.08.) 折尾駅(2006.08.) 東水巻駅
中間駅(2010.08.) 筑前垣生駅(2010.08.) 鞍手駅(2010.08.)
筑前植木駅(2010.08.) 新入駅(2010.08.) 直方駅(2006.08.)
勝野駅(2010.08.) 小竹駅(2010.08.) 鯰田駅(2010.08.)
浦田駅(2010.08.) 新飯塚駅(2006.08.) 飯塚駅(2010.08.)
天道駅(2010.08.) 桂川駅(2006.08.) 原田駅(2006.08.)



● おすすめ撮影ポイント

 撮影ポイントは、JR線路線別撮影地筑豊本線にて紹介している。(このページに戻る際は、ツールバーの"戻る"を使って下さい)
 この他、筑前垣生駅で遠賀川を渡ってくる列車が撮影できる。



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