肥薩線

最終更新日2008.04.11.




八代-隼人間 124.2km

※ 人吉-吉松間が極端に本数が少なくなるので注意が必要。また、八代-人吉間は特急が多いが、日中は普通列車は少なくなる。
● 基本データ

 肥薩線(ひさつせん)は、鹿児島本線の八代駅から日豊本線の隼人駅に至るJR九州の地方交通線(ローカル線)である。八代駅から吉松、そして吉都線の都城までの区間にはえびの高原線の愛称がつけられている。
 博多から南へ、九州鉄道が明治29(1896)年11月21日に八代まで開業させた線路を鹿児島までどう延ばすかで検討がなされ、国防上の理由(海岸線は攻撃される)と最短コースで行ける事から八代から球磨川に沿って路線の建設がなされることになった。官設鉄道として、八代-人吉間が明治41(1908)年6月1日が開業し、明治40(1907)年7月1日九州鉄道は国有化され、明治42(1909)年10月12日国有鉄道線路名称設定によって、門司(現;門司港)-人吉間が人吉本線となった。
 実は、路線の南、隼人からの建設の方が(北の八代より)早く、明治36(1903)年1月15日国分(現;隼人)-横川(現;大隅横川)が開業している。これは、明治34(1901)年6月10日開業に開業していた官設鉄道の鹿児島線、鹿児島-国分(現;隼人)を延伸する形で進められ、更に明治36(1903)年9月5日吉松まで延伸している。
 最大の難所、人吉-吉松間の山越えルートが明治42(1909)年11月21日に完成し、門司(現;門司港)-人吉-鹿児島間が全通、鹿児島線を人吉本線に編入、鹿児島本線と改称された。
 これにより門司から鹿児島まで路線が繋がった訳だが、人吉-吉松間がスイッチバックやループのある急勾配の難所で、早くから海沿いのルートの建設が求められた。八代から南へは肥薩線として、鹿児島から北へは川内線(後に川内本線)として、それぞれ建設が進められた。昭和2(1927)年10月17日、海沿いのルートが完成し、門司(現;門司港)-八代-川内-鹿児島の海寄りルートが鹿児島本線とされ、分離された八代-吉松-鹿児島が肥薩線となった。更には、昭和7(1932)年12月6日の日豊本線全通に伴い、隼人-鹿児島間が分離、日豊本線に編入、現在の肥薩線が完成した。
 今では、完全たるローカル線となってしまった訳であるが、明治42(1909)年から昭和2(1927)年まで、約18年間九州の主要幹線鹿児島本線と名乗っていた訳になる。
 現在、路線区分は、八代-人吉間、人吉-吉松間、吉松-隼人間と大きく3つに分けられる。八代-人吉間には、熊本からの特急くまがわ号や別府からの特急九州横断特急が乗り入れ、吉松-隼人間には鹿児島中央からの特急はやとの風が乗り入れている。また、休日には快速「九千坊」号(詳細は[車窓の楽しみ方]にて)が運行されている。鉄道の難所が続き、かつ利用者の少ない人吉-吉松間は、一時廃線が取りざたされていたが、平成16(2004)年の九州新幹線(の部分開業)を期に、吉松以南の区間と併せて観光路線としての整備が計られ、以前(平成8(1996)年)より運行されていた観光列車「いさぶろう」・「しんぺい」号は、眺望に特化した車輌に変更された。
 この「いさぶろう」・「しんぺい」号は、日本三大車窓(が望める区間)を通過するので、フリーの展望スペースがあり、眺望がよくなるようになされている。また、座席も木製で落ち着いたものになっている。そして、各車輌にはモニターがついており、飛行機のように前面の風景も楽しむことができるようになっている。また、観光之図もあるので、列車がどこを走っていくのか、走っているのか確認できる。
 人吉から吉松へは「いさぶろう」号、逆は「しんぺい」号となる。この愛称の由来は、人吉-吉松間建設当時の逓信大臣山縣伊三郎、開業当時の鉄道院総裁後藤新平より。矢岳第一トンネルの矢岳方入口に山縣の「天険若夷」、吉松方に後藤の「引重致遠」のプレート(扁額)があり、人吉からは山縣の、吉松からだと後藤の扁額が見られるからである。
[車窓の楽しみ方]
 路線の起点である0kmポストは八代駅にあるが、ホームにありわかりやすかった。
 八代を出発した列車は、すぐに球磨川沿いを走り、肥薩おれんじ鉄道(旧鹿児島本線)と分岐する。肥薩おれんじ鉄道の線路は進行(人吉)方向左に分かれ、そのままトンネルに消えていく。次に、肥薩おれんじ鉄道の線路があらわれるのは頭上を通過する時で、そのまま鉄橋を渡り球磨川の対岸に進んでいった。肥薩おれんじ鉄道の鉄橋を過ぎると急激に谷が深くなり、途中九州自動車道や九州新幹線の高架が高いところからあらわれ、川に垂直になるように渡り、そのまま対岸の山の中のトンネルに吸い込まれていった。そして、しばらく球磨川は進行(人吉)方向右手に見える。
 赤い坂本橋が見えてくると、坂本。坂本の集落を抜けると、荒瀬ダムが見え葉木。しかし、この荒瀬ダムダムとしては国内で初めて撤去されることが決まっている。また、ここはボート競技のメッカだそうで、駅近くには漕艇施設があり、また車窓からか駅舎から漕艇中のボートを見ることができる。
 次の鎌瀬を出発するとすぐに鉄橋(球磨川第一橋梁)を渡る。この橋は、明治39(1906)年にアメリカン・ブリッジ社が製造したのだそうだ。このとき、車窓の左右に川面と九州山地の山々が広がるので楽しい。今度は、進行(人吉)方向左手に川を見ながらのんびり進んでいく。やや長いトンネルを抜けると球泉洞。駅名になっている球泉洞は、深さ4800mもある鍾乳洞のことで駅から北東約1kmのところにある。
 球磨川は、古く揚子江上流の唐天竺からやってきた河童の九千坊が住み、江戸の初め肥後の国主加藤清正と九千坊がけんかをし一族の皆殺になるところ、和尚の命乞いによって、一族が球磨川を追放されることで決着した、という「九千坊伝説」が残る川。休日、八代-人吉間に1往復運行されているのが九千坊号。1両編成だが、畳敷きの座敷スペース(座席指定16人分)があるのが特徴となっている。
 その後、九千坊の一族は水清く餌が豊富な筑後川に移ったのだが、その後領主の有馬家と一緒に江戸に移った。しかし、何といっても九千匹。悪さを繰り返したことで、頭目九千坊より破門された河童たちは、全国の川に散っていったんだそうな。
 このあたりからかなり急峻な地形となり、白石駅から渡駅のあたりまでは、川の中に数多くの瀬を見ることができる。途中の一勝地駅は「足を地につけ努力し、まず一勝を!」という縁起のよい駅名であることから、受験生やスポーツ選手に必勝祈願の入場券(1枚160円)が人気を呼んでいる。また大正(1914)3年に建てられた駅舎もよい。渡が近づいてくると、再び鉄橋(球磨川第二橋梁)を渡り、人吉を出るまで球磨川は進行(人吉)方向右手に広がる。しかし、車窓から見ることがほとんどできなくなる。渡とは、この辺りで球磨川が淀み渡れることからついたそうで、駅舎反対側の土手かを登ってみると、その通り美しい球磨川が広がった。振り返るとホームがあり、その対比が面白かった。また、駅近く(八代方向)には「球磨川下り乗船所」がある。
 肥薩線、八代-人吉間は是非3月下旬に乗ってもらいたい。なぜなら球磨川沿いに植えられた桜が見事だからである。そして、何と言っても西人吉到着直前に見える桜のトンネルが素晴らしい。進行(人吉)方向左手に植えられているものなのだが、それは約200m続き、その間車内が薄桜色に包まれる。また、駅から数分のところにあるので、下車して散歩するのもよいだろう。こうして、市街地に入ると人吉に着く。
 人吉からはくま川鉄道が東にむけ湯前まで運行されている。それでJRのホームから跨線橋で乗り場に行けるが、駅入口はJRの東側にある。また、くま川鉄道のホームからは国指定の史跡大村横穴群が見え、巨壁に掘られた横穴古墳群が楽しむことができる。

 人吉-吉松間の日中に運行される、観光列車いさぶろう号に乗って、いざ出発。いさぶろう号(または、しんぺい号)は2輌編成。そのうち、自由席は7人分ほどしかないので、乗車の予定があったら、是非指定を取ることをお勧めしたい。また、展望スペースがあって、車窓左右自由に見ることができるので。
 人吉を出発した列車は、しばらく市街地を走り、くま川鉄道と分岐すると大きく南へカーブし、球磨川を渡る。ここから急な上り坂となり、エンジンをうんうん唸らせながら列車は登っていく。途中、牧歌的風景が広がるのだが、水平線が傾いているので、いかに急勾配であるかよく分かる。トンネルを4つほど抜けると、大畑(おこば)に着く。おこばとは、大規模な焼畑から転じた名前なんだそうな。
 明治42(1909)年11月21日に人吉-吉松間が繋がった時に開業した大畑駅。駅舎も古いものなら、駅舎内の時刻表も時代を感じさせられる。あと誰がはじめたか分からないが駅舎内に無数の名刺が貼り付けられていた。また、SL時代の遺構として給水塔や、急勾配により大量に発生する煤が機関士の顔に付くので、それを洗う為の洗面台や、他には難工事の殉職者の慰霊碑など、駅構内に見所が多い。いさぶろう号(または、しんぺい号)は数分の停車時間を設けてくれるので、その時間で大畑駅の主だったものを見ることができるが、多くの乗客も降りるので割と慌しくなる。もし時間があるなら、下車してゆっくり過ぎ去った時間を楽しむのをお勧めしたい。
 ここから矢岳-真幸までが、肥薩線のハイライト。まずは、大畑駅構内でスイッチバックした列車が引込み線に入り、再びスイッチバックして勾配を登っていく。この時、大きくループして山を駆け上っていく。大きく円を描くので、進行(吉松)方向左手に大畑駅のポイント(と引込み線)を見ることができる。こうして、更に山の中に入っていき、しばらくすると矢岳になる。ここの古い駅舎があり、また駅構内に人吉市のSL展示館がある。矢岳を出発すると、進行(吉松)方向左手が開けてきて、日本三大車窓と名高い風景が広がる。残念なことに、私が乗車した時は天気が悪かったが、天気がよいとこのような風景が広がる。ここから下り坂になりトンネルの数が増える。進行(吉松)方向左手眼下に真幸の駅が見え、スイッチバックをして駅に着くこの大畑-真幸間は、スイッチバック-ループ線、そして日本三大車窓が望めるので、鉄道ファンにとって日本一有名な区間である。真幸(まさき)と名前もよいので、ホームには鳴らすと幸せになといわれるがある。また、日中には地元特産品の即売会が開かれている。
 終戦間もない昭和20(1945)年8月22日、復員者を多く乗せた人吉方面にむかう列車が、吉松-真幸間の第二山神トンネル内で坂を登りきれず立ち往生した。トンネル内なので煤煙が充満し、耐え切れなくなった乗客の多くが列車から離れ、トンネル内を下りはじめた。丁度その時、列車が退行をはじめ多くの乗客がひかれ、死者50名以上という大惨事となる事故が発生した。戦地で生き延び、故郷目前で遭難した人の思いはいかばかりであろうか。真幸の「幸」は、遭難された人達にもあって欲しい。慰霊碑は第二山神トンネル、真幸側、進行(吉松)方向左手に見ることができる。
 トンネルは多いが、抜けると標高も高いので、気持ちのよい風景が広がる。標高が落ちてきて、車窓に畑などが増えてくると、吉松市街に入る。吉都線の線路と合流すると、進行(吉松)方向左手にSLが見え、吉松に着く。写真むかって左が肥薩線八代方面、右が吉都線都城方面になる。吉都線の鶴丸、吉松、そして真幸と幸先のよい駅がまわれる幸福の鉄道のきっぷがこの吉松駅で販売されている。また、更には日豊本線指宿枕崎線などの縁起のいい駅がめぐれる七福きっぷなどもある。

 吉松から再び登りになり、下りになると大隈横川。2つ先の霧島温泉は、霧島連峰観光の玄関口である。霧島温泉のお隣は嘉例川。日本最古の駅舎として有名で、明治36(1903)年1月15日、国分(現;隼人)-吉松間の開業した時に建てられたもの。平成18(2006)年3月2日に国より登録有形文化財に登録された。平成19(2007)年には百4歳になる。車内から改札口を鑑賞するのもよいが(進行(隼人)方向右)、下車してみるのもよい。スタンプなどもおしてみるのも楽しい。近くに鹿児島空港がある為、20〜30分おきにジェット機の音が駅舎内に響き渡る。百年近く経つ駅と近代的な音の対比が、面白かった。また、改札の夜の姿も美しい。
 ここからを駆け下り、車窓が単調になるが、突然隼人市街が車窓に広がる。肥薩線の車窓は最後まで気が抜けないようだ。こうして、市内を走り日豊本線合流すると、終点隼人に到着する。
 車窓は、鎌瀬までは進行(隼人)方向右側、以降は左側が楽しい。日本三大車窓は、スイッチバックがあるが進行(隼人)方向左に広がる。



● 乗りつぶし記録

  ・2007.03.31. 南九州攻略作戦で、吉松→隼人間に乗車。
  ・2007.04.01. 同、八代→球泉洞→葉木→鎌瀬→八代間に乗車。
  ・2007.04.02. 同、八代→西人吉→渡→隼人間に乗車。完乗達成。
  ・2008.03.30. 九州完乗作戦で、八代→西人吉→渡→人吉/人吉→八代間に乗車。



● 駅舎写真

八代駅(2007.04.) 坂本駅(2007.04.)未下車 葉木駅(2007.04.)
鎌瀬駅(2007.4.) 瀬戸石駅(2007.04.) 球泉洞駅(2007.04.)
一勝地駅(2008.03.) 渡駅(2007.04.) 西人吉駅(2007.04.)
人吉駅(2007.04.) 大畑駅(2007.04.) 矢岳駅(2007.04.)
真幸駅(2007.04.) 吉松駅(2007.04.) 植村駅(2007.04.)未下車
霧島温泉駅(2007.04.)未下車 嘉例川駅(2007.04.) 隼人駅(2007.04.)



● おすすめ撮影ポイント

 撮影ポイントは、JR線路線別撮影地肥薩線にて紹介している。(このページに戻る際は、ツールバーの"戻る"を使って下さい)



全線一覧の Pege へ もどる