後藤寺線

最終更新日2010.09.04.


● 基本データ

 後藤寺線は、日田彦山線田川後藤寺から筑豊本線の新飯塚駅を結ぶローカル線(地方交通線)である。全線は13.3kmと短いが、石炭や石灰石を輸送する為、私鉄3社が作った路線を国が順次買収。昭和18(1943)年7月1日、3区間を統合、国鉄の後藤寺線が誕生となったなど複雑な歴史を持っている。
 路線の歴史で最も古いのは、路線の東側、後藤寺-起行間で、明治29(1896)年2月5日、伊田(現;田川伊田)-後藤寺間を開業させた豊州鉄道が延伸する形で開業している。後藤寺は後の田川後藤寺、起行は田川後藤寺-船尾間にあった貨物駅で現在は廃止されている。やがて、明治34(1901)年9月3日豊州鉄道は九州鉄道に合併、更に明治40(1907)年7月1日、九州鉄道が国に買収され、同区間が田川線の貨物支線となった。
 次に路線の西側が建設されることになる。明治35(1902)年6月15日、九州鉄道が後の筑豊本線になる路線から分岐する形で、山野分岐点-上三緒-山野間を開業させている。上三緒-山野間は、現在の路線から離れ、南に進むように敷設されている。明治40(1907)年7月1日の九州鉄道が国に買収され、筑豊本線の貨物支線という扱いになり、路線は、大正2(1913)年8月20日、漆生まで延伸している。貨物支線だったが、大正9(1920)年5月1日、旅客営業も開始。この際、山野分岐点は芳雄駅に併合され、芳雄-漆生間が漆生線となった。さらに芳雄は、昭和10(1935)年2月1日、新飯塚と改称している。
 そして、路線の中間部は、九州産業鉄道(昭和8(1933)年10月6日、社名変更して産業セメント鉄道)が大正11(1922)年2月5日、起行-船尾を開業させている。さらに、大正15(1926)年7月15日、筑豊本線貨物支線の上三緒-山野間にあった赤坂(現;下鴨生)まで延伸している。
 昭和18(1943)年7月1日、産業セメント鉄道は国に戦時買収され、田川線貨物支線の後藤寺-起行間、産業セメント鉄道の起行-赤坂間、漆生線の芳雄-赤坂間が、後藤寺線として区間統合された。
 ちなみに、分離される形となった漆生線は路線が赤坂-漆生間となり、昭和41(1966)年3月10日に下山田まで延伸されるが、特定地方交通線に指定され、昭和61(1986)年4月1日に廃止されている。




新飯塚-田川後藤寺間 13.3km

※ 距離が短く、ほぼ1時間に1本運行されているので、乗りつくしは容易。


[車窓の楽しみ方]
 後藤寺線を走る列車はキハ150系気動車。後藤寺線だが、始発は新飯塚駅。始発駅の象徴0kmポストは、ホーム脇にある。
 新飯塚を出発した列車は、筑豊本線と分岐して、遠賀川が作り出した水田地帯を進行(田川後藤寺)方向右手に見ながら進んでいく。上三緒駅を出ると遠賀川がかなり近づくが、堤防が見えるだけで川面を見ることができない。ここから台地を駆け上ることになる。時々、台地を削ったなどを渡り、その際遠くまで見えるので、なかなか気持ちがよい。
 筑前庄内を出ると、列車は山の中へ。後藤寺線唯一のトンネル、入水トンネルを抜けると、いよいよ後藤寺線のハイライト。車窓の左右に石灰工場が広がる。線路近くにそそり立つようにあるので、圧巻である。また、積み出しを待つ石灰が、まるで砂糖のよう。圧倒されたまま船尾駅に列車は滑り込む。ここから再び穏やかな水田地帯が広がり、進行(田川後藤寺)方向右手遠方には、香春岳が見ることができる。
 炭鉱住宅などが増えてくると後藤寺の市街地。国道322号の赤い鉄橋をくぐると終点田川後藤寺駅に到着する。田川後藤寺駅は炭坑節の生まれ故郷として有名。また、平成筑豊鉄道も接続している。



● 乗りつぶし記録

  ・2006.08.17. 北九州攻略作戦で、田川後藤寺→新飯塚間に乗車。完乗達成。
  ・2006.08.17. 同、新飯塚→田川後藤寺間に乗車。往復完乗達成。
  ・2010.08.22. 九州鉄道記念館号撮影で、新飯塚→筑前庄内→下鴨生→田川後藤寺間に乗車。



● 駅舎写真

新飯塚駅(2006.08.) 上三緒駅 下鴨生駅(2010.08.)
筑前庄内駅(2010.08.) 船尾駅(2010.08.) 田川後藤寺駅(2006.08.)



● おすすめ撮影ポイント

 撮影ポイントは、JR線路線別撮影地後藤寺線にて紹介している。(このページに戻る際は、ツールバーの"戻る"を使って下さい)



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