身延線

最終更新日2009.09.15.


● 基本データ

 身延線は、東海道本線の富士駅と中央本線の甲府駅とを結ぶJR東海の地方交通線(ローカル線)である。
 徳川家康の命を受けた京都の大商人角倉了以の手によって江戸初期に開設された富士川舟運が身延線の原形となる。富士川舟運は、鰍沢(かじかざわ)と岩淵(現静岡県富士川町)間を、下りは1日、上りは3日かけて結び、甲斐国の大動脈として以来300年もの間機能し続けてきた。しかし、明治維新後の近代化の流れの中で、富士川運輸の設立(明治7(1874)年)等効率化が進められたが、その事故の多さや休航率の高さはどうしても克服出来ず、不便な舟運を止めて富士川沿いに鉄道を敷く事が求められた。
 明治22(1889)年東海道線が全通、東海道線岩淵(現富士川駅:富士川舟運の静岡側の港が置かれていた)と計画路線である中央鉄道(現中央本線)甲府とを結ぶ鉄道の建設が構想され、「鉄道敷設法」第二期線に規定される。駿甲鉄道(すんこうてつどう)と甲岩線私設鉄道(こういわせんしせつてつどう)が合併して(明治30(1897)年)できた富士川鉄道が、はじめこの区間を建設しようとするも折りからの日清戦争後の大不況により会社は解散。引き継いだのは、明治45(1912)年に設立された富士身延鉄道である。すでに、東海道線の鈴川(現吉原)から大宮(現富士宮)までの馬車鉄道を運営していた富士鉄道(旧富士馬車鉄道)を買収し、大正2(1913)年に富士-大宮町間を蒸気鉄道として開業した。以後、順次延伸され、大正9(1920)年5月18日に身延まで開通した。苦労して開業した訳だが、身延-芝川間のフォッサマグナによる地質の悪さが建設費の高騰を招き、開通後日本一高い運賃設定となり、沿線から国営化を望む声が上がった。
 身延から先、甲府盆地を直進甲府直通を望む富士身延鉄道と、当初計画通り石和にて中央本線と合流させてから甲府へ向うことを画策していた国との間で交渉が膠着、身延以北の区間の建設は、一旦は政府により建設される事となった。しかし、関東大震災の影響で不可能となり、結局国有鉄道の規格に準じた路線の建設を条件に、国からの支援を得て富士身延鉄道が建設する事となった。様々な紆余曲折の末開始された身延以北の建設は(習志野の)陸軍鉄道第二連隊が、演習名目での協力、順調に工事は進み、昭和3(1928)年3月31日に甲府まで全通した。
 その後、富士身延鉄道は昭和13(1938)年11月1日に国鉄借り上げとなり、昭和16(1941)年5月1日買収され、私鉄としての富士身延鉄道は消滅し、路線は国鉄身延線となった。
 現在は、富士-富士宮両市の都市間輸送を担う区間、甲府市への通勤・通学輸送を担う区間、そして、大石寺参詣や富士川に点在する観光地を結ぶ区間と、3つの顔が同居する路線となっている。

[車窓の楽しみ方]
 富士駅から富士宮までは市街地を走る。この区間は旧国電車輌がコトコト走っていることもある。西富士宮から沼久保間では急に標高が上がるので、進行(身延)方向左側に雄大な富士山があわられる。残念なことにこれ以降富士山を望むことはできない。
 沼久保からは、富士川に沿って走り、ゆったりとした流れを楽しむことができる。下部温泉付近のやや険しい山を抜けると甲府盆地が広がる。盆地の水田地帯を車窓に写し、列車は甲府に到着する。
 車窓は、進行(甲府)方向左側が楽しい。
富士-甲府間 88.4km

※ 本数が多いので乗りつぶしは容易。しかし、身延-鰍沢口間は日中本数が少なくなるので注意が必要。



● 乗りつぶし記録

  ・2004.03.28. 身延山にしだれ桜を見に行った時富士→波高島→身延間に乗車。
  ・2004.03.28. その帰り身延→富士間に乗車。
  ・2005.08.28. 身延・小海線攻略作戦富士→甲府間に乗車。完乗達成。



● 駅舎写真

富士駅(2005.08.) 竪堀駅(2005.08.) 富士宮駅(1999.11.)
内船駅(2005.08.) 身延駅(2005.08.) 甲斐常葉駅(2005.08.)
鰍沢口駅 甲斐上野駅(2008.12.) 甲斐住吉駅(2008.12.)
善光寺駅(2008.12.) 金手駅(2008.12.) 甲府駅(2005.08.)



● おすすめ撮影ポイント

 撮影ポイントは、JR線路線別撮影地身延線にて紹介している。(このページに戻る際は、ツールバーの"戻る"を使って下さい))。



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