東海道新幹線

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最終更新日2012.02.07.


● 基本データ

 東海道新幹線は、東京駅から名古屋駅、京都駅を経由して新大阪駅までを結ぶJR東海の高速鉄道路線である。多くの列車が山陽新幹線に直通する運行体系がとられていることから、総称して「東海道・山陽新幹線」と呼ばれることがある。

 今では、ビジネスや観光にと、当たり前のような移動手段として利用されているが、東京・大阪という日本を代表する2つ大都市圏を高速鉄道によって3時間で結ぶというのは、戦前・戦中(そして戦後しばらく)を通して「夢」のような話であった。所要時間は、明治22(1889)年7月1日の東海道本線全通時には約20時間。昭和5(1930)年10月1日登場の特急「燕」で約9時間(後に8時間)、戦後の昭和33(1958)年11月1日特急「こだま」が6時間50分と劇的に短縮されたが、3時間はまだ「夢」の話であった。しかし、昭和32(1957)年5月、国鉄の鉄道技術研究所より「東京-大阪広軌新幹線による3時間運転の可能性について」という研究が発表され、夢が現実へと動き出したのである。この時「夢の超特急」という言葉が誕生したほどだ。

 時代は遡るが、東海道・山陽本線に高速鉄道を運行する計画は実は早くから構想されていた。しかし、高速化をはかる為には、レールを幅を「狭軌」(1,067mm)から「標準軌」(1,435mm)に広げる必要があった。日本の鉄道は、イギリスの植民地規格であるところの「狭軌」と呼ばれるレール幅(1,067mm)で敷設されていた(日本国内ではスタンダードになったため国内では「標準軌」とも呼ばれる)。これはイギリス技術者の指導によって日本の鉄道が建設された為、いたし方ないとはいえ明治政府に鉄道敷設の財政的な余裕がなかったことと、それに国土が狭く、さらに急峻な山脈が連なっていることが、1,067mmの狭軌は日本の国土にあっていたといえる。しかし、狭軌では増大する輸送量、求められる高速化には対応できなかった。明治政府は、1,435mmの標準軌への改軌の計画を立案したが、改軌費用は膨大なものであり、また地方への鉄道建設を優先させるため、結局、断念するしかなかった。
 時代は流れ、全国の鉄道網がほぼ完成し、明治34(1901)年5月27日の新橋-下関間の開業や、更には昭和初期(1930年代)に入ると満州事変・日中戦争などによる日本から中国へ向かう輸送需要の激増で、東海道・山陽本線の輸送量も増大し、輸送力増強手段として昭和14(1939)年に発案されたのが高速鉄道計画(「弾丸列車計画」)であった。東京から下関まで在来の東海道・山陽本線とは別に広軌(1,435mm・標準軌)の新路線を建設し、最高速度200km/hの高速運転を行い、東京-大阪間を4時間、東京-下関間を9時間で結ぶというもので、これには、対馬海峡に海底トンネルを建設して朝鮮半島へ直通、釜山から奉天(現;瀋陽)を通り満州国の首都新京(現;長春)という構想も一部では描かれているなど壮大なものであった。1,435mmの南満州鉄道(満鉄)で運行されていた特急「あじあ」号(最高速度120km/h以上)の成功が拍車をかけたともいえる。翌昭和15(1940)年9月に承認され、建設工事が始められる事になった。
 結局、戦争の激化・敗戦によりこれは計画で終わったが、相当な区間の土地買収が戦時中の時点で半ば強制的な形で終わっていたことや、新丹那トンネル・日本坂トンネル・東山トンネルなどの長大トンネルの建設が進んでいたことなど、後の新幹線建設をスムーズにした。

 戦後の復興期や引き続く経済成長によって、昭和30(1955)年代末には東海道本線の輸送力は限界に達していた。この為根本的対策としての別線増設という形でこの「弾丸列車計画」が再び脚光を浴びることになり、さらには前出の昭和32年の鉄道技術研究所の研究発表により、昭和34(1959)年4月20日に十河信二国鉄総裁が新路線建設を決断、技師長の島秀雄の下、標準軌新線として昭和34(1959)年4月20日に着工された。東京オリンピック開会にあわせる突貫工事の末、着工から5年の昭和39(1964)年10月1日に開業した(オリンピック開会は同年10月10日)。
 当初、名古屋から南西に進んで鈴鹿山脈を抜けるルートが計画されており、この予定ルート上の京都府南部に新駅を設置した上で通過させ、東京-新大阪間を3時間で到達させる予定であった。しかし、これに対して京都市など地元からの猛反発を受けたほか、予定されたルートでの工事は難航が予測されたことから、最終的には京都駅にも駅が設置されるに至った。これによって、関ヶ原という降雪の多い地帯を通ることになり、東海道新幹線では、唯一スプリンクラーが設置される区間となっている。また、岐阜駅からも大きく離れることなり、岐阜羽島に駅が設置されることなった。当時陸の孤島であった場所に駅が設置されたので、これには政治家大野供睦の力が働いたのではと話題を呼んだ。
 昭和62(1987)年4月1日の国鉄分割民営化によって、この区間はJR東海に移管された。

 起工(着工)から約5年という短期間のうちに、しかも綱渡り的なスケジュールで辛うじて完成したので、開業当初は路盤がまだ安定していないのではと憂慮された。このことにより開業後1年間は馴らし運転の意味合いもあり、東京駅-新大阪駅間を4時間(「ひかり」の場合)で運転された。翌年からスピードアップがはかられ、3時間10分で結ばれるようになり、しばらくその時代が続く。その後、「のぞみ」の誕生などで、現在は、2時間25分(最高速度270km/hでの最速の場合)となっている。

 しかし、この東海道新幹線の輸送量も限界に達しており、また設計想定以上の使用(1時間に10本程度の運行)に対する路線の老朽化もあり、新たな路線の建設や日本アルプスを貫くリニア新線建設の計画などが模索されている。




東京-新大阪間 552.6km (実際の距離は515.4km)

※ 本数は多いので乗りつくしは楽。ただ、周遊券の使用など費用面での削減をはかりたい。



[車窓の楽しみ方]

現在、編集中。



● 乗りつぶし記録

  ・1976?.08.  家族旅行で伊豆に行った際、熱海→新横浜間に乗車。
  ・1980.03.?  岡山へ引越し、東京→新大阪間に乗車。完乗達成。
  ・1981.08.?  岡山からの帰省そして戻る際、東京→新大阪間に乗車。
  ・1987.11.?  修学旅行で、広島・沖縄へ、新横浜→新大阪間に乗車。
  ・1998.03.14. 高松・岡山旅行で、新大阪→新横浜間に乗車。
  ・2000.03.20. 近畿旅行で、新大阪→新横浜間に乗車。
  ・2000.07.23. 岐阜・神戸旅行で、新大阪→新横浜間に乗車。
  ・2001.09.09. 南紀・近畿旅行で、名古屋→新横浜間に乗車。
  ・2002.06.01. 友人の結婚式参加の為、新横浜→名古屋間に乗車。
  ・2002.06.02. その帰り、名古屋→新横浜間に乗車。
  ・2003.03.13. 九州旅行で、新横浜→新大阪間に乗車。
  ・2003.07.26. 友人と浜松へ、東京→浜松間に乗車。
  ・2003.07.27. その帰り、浜松→新横浜間に乗車。
  ・2010.11.23. 九州撮影旅行で、新大阪→新横浜間に乗車。
  ・2011.03.13. 大阪撮影&乗りつくし旅行で、新大阪→新横浜間に乗車。
  ・2011.10.07. 山陰遠征で、新横浜→名古屋間に乗車。
  ・2011.10.08. 同、名古屋→新大阪間に乗車。



● 駅舎写真

東京駅(2005.09.) 品川駅(2005.09.) 新横浜駅(2009.06.)旧駅舎
小田原駅(2006.04.) 熱海駅(2006.01.) 三島駅(2008.01.)
新富士駅(2012.01.) 静岡駅(2006.07.) 掛川駅(2008.08.)
浜松駅(2006.07.) 豊橋駅(2005.07.) 三河安城駅(2006.07.)
名古屋駅(2000.04.) 岐阜羽島駅(2010.08.) 米原駅(2006.03.)
京都駅(2001.09.) 新大阪駅(2006.03.)



● おすすめ撮影ポイント

 撮影ポイントは、JR線路線別撮影地東海道新幹線にて紹介している。(このページに戻る際は、ツールバーの"戻る"を使って下さい))。
 他、伊吹山と撮影ができる岐阜羽島-米原間など。



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