● 基本データ 氷見線は、北陸本線の高岡から能登半島の東岸の付け根にあたる氷見に至るJR西日本の地方交通線(ローカル線)である。沿線に氷見や風光明媚な雨晴があり観光路線の印象もあるが、伏木工業地帯や海岸沿いの工場地帯の輸送を能町から分岐する貨物支線(新湊線)とともに担っている役割が大きい。 高岡では東西に北陸本線が、南北に城端線と氷見線が十字になるように走っているが、これは城端線と氷見線が同じ鉄道会社(中越鉄道)だったことに由来している。中越鉄道が富山県下初の鉄道として、明治30(1897)年5月4日に城端線区間の黒田仮-福野間を開業させた。明治31(1898)年1月2日に高岡-城端間が全通した後、中越鉄道は氷見方向に延伸させ、明治33(1900)年12月29日に伏木まで開業させている。これが氷見線のはじまりである。明治45(1912)年4月4日に島尾、大正元(1912)年9月19日に氷見まで延伸し全通した。 官設鉄道の北陸本線が明治31(1898)年11月1日に高岡、明治32(1899)年3月20日に富山まで延伸開業しているが、この時は北陸本線の路線と中越鉄道が高岡で(珍しい)平面交差をしていた。城端-氷見間を直通する列車が高岡を通り抜けて運転されていたが、この平面交差が城端線と氷見線とを分かつきっかけとなったようだ。大正9(1920)年9月1日の中越鉄道全線が国有化後、伏木-高岡-城端間が中越線、伏木-氷見間が氷見軽便線と(大正11(1922)年に氷見線に)なり、更に昭和17(1942)年8月1日、伏木-高岡間が氷見線に編入され、高岡-氷見間が氷見線に改称されることになり、現在の形が完成した。国有化前の大正7(1918)年能町から新湊まで開通させた新湊線が分岐しているが、現在では貨物線として使用されている。 また、大正11(1922)年4月11日に公布された「改正鉄道敷設法」では、「富山縣氷見ヨリ石川縣羽咋ニ至ル鐡道」と規定され、氷見から能登半島を横断、羽咋まで延長し七尾線と連絡させる路線(羽氷線)の計画があったが実現しなかった。 ここを出ると急に富山湾の海が広がるので気持ちが良い。市街地、工場地帯、海と短い距離にもかかわらず風景が3回も変わるので氷見線の車窓は面白い。富山湾は進行(氷見)方向右側に広がるが、進行方向前方には能登半島が、後方には白銀の立山連峰が広がる。ただ、立山連峰はよほど天気が良くないと見られない。よく写真などに用いられる岩が見えてくると、雨晴に着く。京都から東北の平泉に逃れる義経の一行が、荒れ狂う富山湾を見て雨が晴れるのを願った、という伝説が残っている。雨晴からも海岸に沿って走るが、ここからは海が見えなくなる。海側には松林が、陸側には畑や家屋などが続く。島尾を出ると、氷見の市街地に入るのか家屋が増えてきて、新川を渡ると終点氷見に到着する。 | ||
高岡-氷見間 16.5km ※ 距離も短く、列車の運行も1時間に1本あるので乗りつくしは楽。 |
● 乗りつぶし記録
・2004.04.09. 富山・金沢旅行で高岡→雨晴間に乗車。
・2004.04.09. 同、越中国分→高岡間に乗車。
・2008.11.08. JR全線完乗作戦で、高岡→氷見間に乗車。完乗、並びにJR全線完乗達成。
JR全線制覇記念 photo by あいあん様
● 駅舎写真
高岡駅(2008.11.) 越中国分駅(2004.04.) 氷見駅(2008.11.)
● おすすめ撮影ポイント
撮影ポイントは、JR線路線別撮影地氷見線にて紹介している。(このページに戻る際は、ツールバーの"戻る"を使って下さい)。