福塩線

最終更新日2010.09.04.




福山-塩町間 78.0km

※ 府中-塩町間は日に8往復しかなく、また日中はほとんど運行されないので注意が必要。
● 基本データ

 福塩線(ふくえんせん)は、山陽本線の福山駅から中国山地に入り、芸備線の塩町駅に至るJR西日本の地方交通線(ローカル線)である。
 古来より備後の国(広島県東部)の瀬戸内岸より三次を経て、山陰出雲の国や石見の国に至る道があった。備後からは塩を、石見よりは産出された銀を運んでいたとされる。ただ、備後の国からの出発始点は福山より西、尾道からだったとされる。明治期、この区間に鉄道を敷くことが検討され、大正11(1922)年4月11日公布の改正鉄道敷設法(別表第91号)の予定線に「広島県福山ヨリ府中、三次、島根県来島ヲ経テ出雲今市ニ至ル鉄道及来島附近ヨリ分岐シテ木次ニ至ル鉄道」と規定された。
 しかし、福山からの建設は私鉄である両備軽便鉄道が、大正3(1914)年7月21日に両備福山-府中町(現;府中)間を(軌間が狭い(762mm)規格で)開業させたのにはじまる。後に、両備軽便鉄道が両備鉄道に改称(大正15(1926)年6月26日)、開業区間の電化を行った(昭和2(1927)年6月25日)。後に両備鉄道をはじめ多くの軽便鉄道が国有化されるが、国鉄が保有することになる軽便鉄道では唯一電化された路線であった。
 電化より前、途中の神辺より東へ高屋まで延びる両備軽便鉄道の高屋線(非電化)が大正11(1922)年4月9日に開業している。
 昭和8(1933)年9月1日、両備鉄道が国有化、両備福山-府中町(現;府中)間が福塩線となった。しかし、非電化であった支線の高屋線神辺〜高屋間は買収の対象から外れ、神高鉄道に譲渡された。昭和15(1940)年に井笠鉄道の神辺線となったが、昭和42(1967)年に廃止となっている。近年、井原鉄道の路線として活用されることになり、平成11(1999)年1月11日に開業した総社-清音-神辺間の一部として利用されている。
 塩町からの建設もはじまり、昭和8(1933)年11月15日、田幸(現;塩町)-吉舎(きさ)間が開業。この新規開業区間を福塩北線とし、既存の両備福山-府中町間が福塩南線に改称された。この福塩南線が軽便規格で建設されていた為、大規模な改軌(762mm→1067mm)・付け替え工事が行われ、昭和10(1935)年12月14日に完了。この際、既設の福山駅に乗り入れを果たした(両備福山駅は廃止)。
 路線の建設は南北から進み、福塩北線が昭和10(1935)年11月15日上下まで延伸開業。福塩南線が昭和13(1938)年7月28日府中町から上下までを延伸開業させ全通した。全通後、福塩南線の新規開業区間と福塩北線(塩町-上下間)を編入し福塩線に改称された。
 戦後になって昭和29(1954)年4月10日下川辺まで電化がなされたが、昭和37(1962)年4月1日府中-下川辺間電化が廃止になり、府中を境に電化区間と非電化区間が分かれ、運転系統も府中駅で完全に分断された。現在では、ここで電車から気動車への乗換えが必要となっている。そして、府中からの気動車は全て、芸備線三次駅まで乗り入れている。
 昭和50(1975)年8月31日に全通した三江線に三次より乗り継げば、改正鉄道敷設法の理想であった陰陽連絡線としての役割も果たせなくも無いが、その後の自動車社会の到来により、その意義は完全に失われてしまっている。
[車窓の楽しみ方]
 福山城の敷地内に作られたのが福山駅、一番福山城寄りにあるのが福塩線のホームで、ホームから福山城が見ることができ楽しい。福山を出発した列車は大きく右カーブし、市街地を走るようになり、隣の備後本庄駅。備後本庄を出ると芦田川の川縁に出て気持ちの良い風景が広がる。幅の広い川面にいくつもの流れがあることが確認できた。芦田川やその支流高屋川と分かれると再び市街地なるが、市街地というより住宅街が続く、そして家と家の間に水田なども見える。こうして神辺に着く。ここから井原鉄道が分岐するのだが乗り場は併設されているといってもよい。
 神辺には江戸時代参勤交代で大名が宿泊した本陣跡が、駅から徒歩10分程のところにあり、土日を中心に敷地内に入ることができる。母屋には計200畳の27室があり、大名が休息を取った間や、どこの大名が宿泊していたか分かる為に用いた札を納めた札部屋などが見学できて面白い。そして、江戸中期の陽明学者、頼山陽が一時教鞭を取った廉塾も本陣跡近くにある。また、街並も江戸情緒を良く残しており、一歩裏路地に入ると水路が走る街を様々な町の顔を見ることができた。
 神辺を出発すると井原鉄道と分岐、そのまま水田に集落が混じる風景の中を走っていく。芦田川の支流神谷川を渡ると新市、この駅から北約2kmほどの所に、備後一宮吉備津神社があり、駅にも灯篭が並ぶ。家屋や建物が増え、建物すれすれを列車が走るようになると府中に着く。古代より備後国府が置かれていたそうなのだが、駅周辺ではそれを感じさせられるものはなかった。また、府中は備後タンスや桐箱の町として有名だが、釣具や機械で有名なリョービの本社もここにある。
 府中からは終点まで非電化区間となる為、必ず乗り換えとなる。府中を出発すると列車は芦田川を渡り、対岸に市街地を見ながら走っていく。進行(塩町)方向右手に古びた工場が見えてくるといよいよ上り坂になり、勾配の急なを一気に駆け上るようになる。府中から進行方向右手に見えていた芦田川も、河佐付近で右や左に移り、その都度川を渡る。河佐を出ると河佐峡に築かれた八田原ダムを回避する為に掘られた八田原トンネルに入っていく。トンネルを抜けると備後三川、ここで芦田川ともお別れ、ここからは芦田川の支流矢多田川と共に刺繍糸を縫うように蛇行しながら山間に入っていく。川に沿って、登っていくが上りきった場所から集落が増え、上下に着く。名の通り峠の上にあり、江戸時代には出雲街道が通り、備中・備後を統括する代官所が置かれた天領でもあった。また石見銀山からの銀の集積中継地でもあり大いに栄えたそうだ。今でも街並には当時の面影を残すものが多い。
 そして、上下は分水嶺の上にもあり、今までは瀬戸内海に注ぐ芦田川水系に沿って登ってきたのだが、ここより先は日本海に注ぐ江の川水系に沿って駆け下るようになる。上下から先、しばらくはのんびりとした里山の風景が広がり、備後安田付近まで水田地帯が続く。ここより、坂を駆け下るようになり、水田1枚1枚の高さが違うので、その勾配をうかがい知ることができる。隣の吉舎を出ると、江の川の支流馬洗川に沿って走るようになる。途中、川から離れ水田地帯の中を走るようになるが、基本的に車窓はのんびりしたもの。三良坂から再び水田の中徐々に下りはじめ、進行(塩町)方向右手に芸備線の鉄橋が見えてきて、林の中を抜けると芸備線と合流、終点塩町に到着する。
 車窓は、左右それほど差はない。



● 乗りつぶし記録

  ・2007.08.25. 中国山地攻略作戦で、塩町→福山間に乗車。完乗達成。
  ・2010.08.20. 九州鉄道記念館号撮影で、神辺→福山間に乗車。



● 駅舎写真

福山駅(2007.03.) 神辺駅(2007.08.) 万能倉駅(2007.08.)
駅家駅(2007.08.) 新市駅(2007.08.) 府中駅(2007.08.)
備後三川駅(2007.08.)未下車 備後矢野駅(2007.08.) 甲奴駅(2007.08.)未下車
備後安田駅(2007.08.)未下車 三良坂駅(2007.08.)未下車 塩町駅(2007.08.)



(ともりんが)行ってみたい撮影ポイント

  あやめと列車が撮影できる備後矢野駅付近など。



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